むいしぜん

無為自然。人為を排することで自然と一体となり、自然の一部として自然を理解することであり、真に同化するならば自然のままに力を振るうことのできるという極意というか境地。宮本武蔵の「空を道とし、道を空と観る」も同じような発想だろう。福岡正信さんや木村秋則さんの自然農法も無為自然を目指すものと思われ、自然とは放任ではないのだと発言されている。この発想自体は老子や荘子の時代から2500年以上言われ続けている。ずっと人類のなかに持ち続けられてきた想念であり、広く一般化したこともないものでもある。

但し福岡さんは無為自然とは呼ばず「この世界は無だ、何もないのだ」としか言ってない。著書などをみると、無為自然のことだなと思われるってことである。

無為自然は人為を無くすというが、なくすべき人為とは何だろうか? また自然とはなんだろうか?

法則や秩序を無視して人間が思惑で行動すればうまくいかないのは当然で、山の斜面に平らな畑をつくろうとしても、大雨がきたら流されてしまい、その思惑は外れるから思惑をもたずに自然のままに畑になるところを畑にせよって考えると、まぁその通りってことになる。

が、そもそも畑をつくること自体が人為だから、畑をつくらなければいいと考えると、人為を排せよというのは人間らしい思考をするな?畑をつくろうと思うなという意味となり、人の振る舞いやそのもとになる思考とは何かをはっきりさせないと、無為自然の本当のところは分からない。

自然とはありのままを言うという人もいる。自らそこにある(然る)ものが自然であると。これは同義反復なので論外のようにも思うが、そもそも人為や思考は自然に含まれるのであろうか? 思考もまた自らそこにあるのでは
なかろうか。つまり自然の一部として、この思考も存在しているのではなかろうかと思うわけだ。

世界は無だというのは、仏教で言う空の概念であろう。仏教はこの無常なる世界のなかで、思考する私(たち)とは何者なのか?を求める道なのだろう。
世界が無常に変化し続ける実体なきものであるとして、私たちもその一部となるなら、人間以外の動物や微生物でもいいのだ。でもそれらが文明を築くことはなく、このような思考は持ち得ない。人類誕生以前から変化・進化してきた世界の仕組みによって生まれた人間、そして私。私とは何なのか。実体が幻でしかない世界の変化の一時のよどみとして私は思考しているのか、思考はこの世界の一部なのか、それともこの世界を対象として眺めることのできる位置にあるものなのか、人間や思考の本当のところは、「世界は無だ」で思考停止してしまっては迫れない。無の世界観では世界の構造を半分しか観ていないのだと思う。
仏教では諸行無常の教え(例えば般若心経)が深化し、依正不二の教え(例えば法華教)が生まれてきたと思うのだが、果たして無の農法からは何が生まれた(る)のだろう。単純に文明否定に行ってしまっては幼いなと思う。多くの思想が向かうのは、人間への認識を深めることであろう。それは無や空に気づいた先に生まれてくるもの。この世界にとって人間とは何か、この思考とは何なのか。

自然と人間の思考は別物なのかといえば、全部この世界のことであろう。この世界は自ら存在する1つのものだ。
この世界がたった1つだけあることはoneness(ワンネス)と表現されるようだ。世界は自ら存在するワンネスであるってほとんど同義反復を重ねただけなのだが、成り立ちからいっても自然と人間を区別することはできない。

とすれば、

人間-この思考する存在-というのは自然そのものであると同時に、自然の中に備わる自己認識する働きのことと言える。本来、世界全体が一体でその総体丸ごとが自己認識をしようとするならば、この世界ではないところとの比較や足場が必要になるが、世界自らがワンネスであるのだから、この世界でないものがない以上、この世界の内部構造として、ある単位で区切ってそれぞれが自己認識を行い、総体としての思考とするしかないのだ。これが個性の原理。

区切りや単位としての個性が人という生き物を単位として機能し、個性間の関係、相互作用を通して、次の個性を生み出し、個性がつらなることで総体の自己認識に迫っていこうという働き。人の間を紡いで見出していく働き、人の間が人間なのだ。人の間は人の愛だから、愛とは分かり合いたいという個性の原理、総体自体が持つ自己認識の働きである。私とは何かを私たちから見出していこうとしているのだ。

私たち人間の思考がこの世界の構造から来るものであるとしたら、無為自然とは本当の私を知るという意味になる。私を無くすのではなく、この世界のもとのもととのつながり(=自然)のなかに私を正しくおくという意味になる。個性は消え去るのではなく、本来の働きとして、この世界の表情になるのだ。

コメント

こんばんは、初めまして。
私も福岡さんの自然農法の『わら一本の革命』を読みました。
その結果、地域にあった栽培方法をしなければうまくいかない事です。
その時その時の感覚でやり方を変えていくに収まりました。
それもまた楽しいです。
こうあるべきを外す・・・自然から学んだのかなーって思います。
訪問させて頂いて、ありがとうございました。
失礼します。
2014/06/24(火) 23:36:37 |URL|さあこ #pK8Gmzao [編集]

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