自然農法ってさ

最近出版された自然農法を冠した野菜づくりの本。基本は耕さず、草を取らず、肥料などを持ち込まない農法だと説明されている。
自然農の本
自然農法は不耕起だと、誰が決めたのだろう。不耕起が自然というなら、耕起は不自然ということになる。
草取りをしないことが自然なら、除草は不自然なことになる。
そこに生えた植物だけを土に返すことが自然で、外部からの持ち込みは不自然だという。
この3つの基本的な考え方、ひとつひとつ見ていったら、畑で起きている自然の働きや作物と人間との歩みにそぐわない。

耕すという字は、「すきへん」に「井」と書く。「鋤」というのは土を起こす基本的な農具で、穴を掘ったり、草の根を切るために使われてきたショベルのようなもの。したがって耕耘機以前の、土に穴を開けたり、溝を掘ったりすることも耕すなのである。井は井戸の意味で、水を引くこと。作物を栽培するスペースをとり、水をかけること、すなわち土に関わる栽培行為そのものが耕すなのだ。不耕起というならば、穴も開けてはいえない。原野にタネをばらまく以外は不耕起と呼んではいけないのである。人為耕起とか、耕耘機不使用というべきである。

草取りをしないことで、雑草の根が土をふかふかにするのだという。雑草があっても育てる方法がないわけではないのだけど、土を根で耕すことは、作物だってできること。作物の能力を使わせずにわざわざ雑草にやらせるのは、作物の能力を甘く見ているか、観察が足りないか、作物に失礼だろうと思うのだが、草取りはいけないことという縛りを自らにかけてしまっているのはないかと思う。草取りしない農法では、草取りしない代わりに、草を刈って敷くという手法をとることが多い。タネだけまいて放っておくっていう農法では草刈りもしないのかもしれないが、多くの「自然農」派は草刈りについて、作物のそばの作物より上に出るようなら刈るように言う。ところで、草を刈る(切る)行為を漢字一文字で「耘る」(くさぎる)と書く。この字は耕耘の「耘」である。つまり「土に溝を切り、草を切ること」は耕耘なのである。だから耕耘を否定するなら、草刈りしてはいけない。

自然農法を無耕起無除草無農薬無施肥の4つの無を原則とした一切無用の農法と言ったのは福岡正信氏である。
しかし、彼の著書を読むと、除草剤や肥料を使う行があることは有名な話。彼自身が原則を無視してやってきたのが事実。そのプロセスを経て、やがて4つの無ができるようになったというのが事実。なのに、一切無用の自然農法だけがイメージとして一人歩きし、それを模倣した人たちが自然農と呼び始めた。ロジックは一緒で、一切無用。しかし一切無用とは何かがよく分からない。

人為を否定する。人間が何かすると自然から遠ざかるのだという。
人手をかけないことを自然とする。
人間のやる農的行為はすべて人間が生きるための必要悪ということになる。
本当はやらない方が自然なのだけど、人が生きていくためにやむを得ずに耕すし耘る。だからできるだけ小さくやりましょうという話になる。

これは人間は自然の存在ではなく、人間のやることは不自然で、自然からみると、人間は生きるために悪事をしているという立場だろうか。

ある人は、いつも自分の管理している自然農法の畑を説明するときに「できるだけ手を入れずに自然の状態に近づけました」という。これも人為を抜くことを自然と捉える立場だから、その立場では農地自体が不自然、栽培作物の存在自体が不自然ということになる。本人にその自覚はない模様。その昔、論戦を挑んだら(若気のいたりかな笑)、「人のやることを否定しているわけじゃなくて、手をかけすぎるなって言いたいだけだ」というのだけど、それならそのように表現したらいい。基本的な自然の捉え方が人間否定から入っている。その立場では全ての農業行為が必要悪になってしまう。悪いことはしない方がいいです。

この人間否定の源は、その人の自己否定だろう。そういうタネが心の中にあるのだ。福岡さんも同じ。自分のなかの矛盾を外に表現して多くの人を巻き込んだと言える。人と自然を対立させ、そこに悪と善というイメージを被せる哲学。これはもう古い。

人類という存在は何か、人とは何か、人の歴史の中で、その考えは醸成され、自然観もまた発達してきた。
それは人は自然の一部であること、人には役割があること。


想念の世界では、何かを否定する農法はもう流行らない、時代遅れになっている。

自然農法の基本は不耕起ですみたいな本が出てきた以上、自然農法を正しくしっかり説明すべきときに来ている。福岡さんの自己否定にこれ以上つき合わなくていい。彼の役割は終わった。

自然農法は耕すし、除草もするし、必要な資材も使う。そういう手法の細かなことで農法を区別しているのではなく、もちろんEM利用などの資材の有無で区別するわけでもなく、自然の仕組み=田畑を耕作することによって自然に備わる耕地生態系の働きを積極的に利用して収穫を得、また栽培を通して増強し、安定化させる連続した取り組みが自然農法である。
自然とは人為をかけないという意味ではなく、人間も含む耕地生態系のこと。これ以外に農地における自然とは何かについて説明はできないのだ。

コメント

この手の本でどれだけ多くの人が決め付けにはまって、のちのち自由に農業もしくは、農的くらしをするのかせになっているのか。

ここにのっている著者達(ほとんど知ってる人だけど(笑))ももう少し自分達の枠を広げると、より後からついてくる人の助けになるような気もするなー。でもみんな先生になっちゃってるから、なかなか難しいかもしれないどね
2012/10/05(金) 23:21:28 |URL|た #- [編集]
人が考えたことを否定して自然に学ぶっていうと、いかにももっともらしく聞こえるのだけど、この視点自体が人が考えたことは不自然と切り捨てる態度だなって思うのです。誰かが言っていたとか、本に載っていたことをそのままオウム返しするのは論外でしょうけど、その人が切り取って言葉や文章にした自然ってのがある。それは自分の目の前の自然とは当然異なるので、どのような条件、背景、考え方のもとにその表現をまとめたのかは参考になるものでしょう。人を自然と分離し、対立させて理解するのではなく、人の営みも地球史の一部であり、自らの行為を顧みるという機能を生物に付与したら、一体何が起こるのかを宇宙は注目しているのでしょう。人のやることも自然を理解するためのプロセス、働きとして客観的に見ていく態度がこれから流だと思うわけです。その点で現時点でのまとめとしてのこの本も視野が狭いけど、それもプロセスと言えるでしょうね。

不耕起栽培を実践した経験を知ることで、通常の耕耘が随分荒っぽく余計なことをしていることが分かるようになるし、それは耕耘の本質に迫ることを意味しています。決して耕耘を否定するものにはならない。その証左として、タネまき溝の切り方や草を敷いて土を柔らかくする手法が発達するとすれば、その環境のその栽培において適切な耕起方法が生まれたということなのです。そして栽培自体が耕すことであり、栽培を通して耕地生態系を作物とともに耕地らしく創造していくという人間の働きを知ることになるのです。耕すをより深く理解し、新しい耕耘技術を開発し、そうした管理方法を経験則や事例として分かりやすく人に伝えること。そうやって人が役割を自ら見出していくっていう意味で、地球生態系における人の役割は大きい。これまでの「不」の歴史もプロセスとして、それを統合していく時代が始まってますね。
2012/10/06(土) 08:15:38 |URL|わたわた #- [編集]

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わたわた(いしわたかおる)です。料理と野菜を育てることが大好きです。何気ない日常も全てこの地球の表現の1ページ。生命と進化の星、地球を表現すべく、日常の1つ1つに心を込めて「生きる」をやっていきます。

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