是我自分

自分とは自らの分のこと。全体を分けた自らの担当部分が自分。全体のなかに分相応の役割を受け持っている。

「これが自分か?」っと、自らを認識するために、本当は全体のなかの一部分なのだけど、境界を認識する必要があって、ここまでが自分なのかと自分とそれ以外とを分ける。分けて対比し、また日々出来事・役割に出会うから、自分のことが分かる。

出来事や問題事や悩みや喜びも、自分と自分以外との関係・つながりを知り、自分の領域を見出すためのプロセス。自他を分けることでしか、自らを知ることはできず、分けることで生み出される必然的なプロセス。

そうやって自分を知っていく先にあるのは、自分の役割を包む全体のこと。出来事は常に全体事として起こり、自分だけという世界はない。この世に無関係なものは存在しない。今目の前にある物体も遠い星の重力の干渉を受けているし、空を見上げて、太陽しか見えなくても、実は遠い星の光も絶えず降り注いでいる。逆に今、目の前にある物体も太陽に幾何かの重力を及ぼし、その活動に影響を与えている。全ては相対的・相補的につながりあっている。

自分というものが、全体のなかで分相応な受け持ちのあるものとしたら、「これが自分?」と常に確認をするために、自分を保つ働きが常に存在することになる。これが自分?、つまり是我自分。自分とは是我なり。

自我はどこまでが自分の受け持ちなのかを継続して認識するためにある。継続的でないと、過去と今と未来を分けられないので、我とは継続的に自分を保つ働きのこと。我があるから時間の経過を認識できるとも言える。

我の働きの結果として、自他の境界が認識される。そうやって我は役割を知るためにあるツールなのだけど、ついつい我はそのツールを保つこと自体を目的にしてしまう。

自他を分け、自我を維持することは本来自分を知り、全体事の展開をより豊かに表現していく役割を担っているということなのだけど、ついついその大元の原理・仕組みを忘れる。自我に固執するのが我執。

我執に陥ると、全体事から切り離されていくので、実は自分が分からなくなる。是我自分だ!っと自分の思うようにやりたいことを表現しているはずが、アクシデントがあったり、人が去っていったり、たとえ成功してもどこまでも不足感がつきまとうことになる。とはいえ、忘れては思い出すを繰り返すようになっているのも絡繰りかもしれない。

なので、自分の本当の意味を分かっていたら、1つ1つの出来事の結果を所有する必要はないことが分かる。
自分ももともと宇宙に帰属し、それを分けて受け持っているだけ。出来事は常に全体事で宇宙の出来事。
無責任ではなく、全体責任。全てのことに自分の分の責任がある。
だからこそ、全体に関心を持って、日々の生活に全てを表現する。

どんな出会いや出来事も大切なメッセージと受け取り、日々を丁寧に生きたいと思う。

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わたわた(いしわたかおる)です。料理と野菜を育てることが大好きです。何気ない日常も全てこの地球の表現の1ページ。生命と進化の星、地球を表現すべく、日常の1つ1つに心を込めて「生きる」をやっていきます。

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