やしろ
では、会社とか、社会とかも含めて、社をどのように捉えるか。
社の字のごとく、本来肉体を持たない神さまが土をまとっている(物質化している)ということは、地上に降りている神さま。
神の字はしめすへんに申すのです。「しめすへん」とは「示」の字のこと。示すとは自分の考えを人に見せる、伝えることなのだから、考えを申す=言葉として示すものが神。初めは言葉だったというが、古今東西の世界の始めに出てくるように、この世界のもと、言葉として申す前に、この世界という1つの想念があって、そこからまず申すものが現れた。そして申し方が変化し、次々と神話の世界が展開していくっていうのは、宇宙の起源、素粒子の進化のようなもの。
そして地上に降り、自分の考えを土=三次元世界で表現するものが社(やしろ)ということになります。ここで言う自分とは個々人のことのようで、それでは個々人とは何かというと、元もと1つの命として誕生した単細胞生物や人類がそれぞれ多様化して生態系や人と人のつながり作り出してきたという経緯から見ると、個々人とは役割分担(八百万)、全体で1つの表現をしている自分ということになるでしょう。
社とは人間のことであり、人の作る関係(コミュニティ)のこと。
会社とは、1つのコンセプト・理念・目的のもとに集まるコミュニティのことであり、社会とは八百万の人間たちが関係を持ち合う時空間です。
会社(私企業)も地域社会も日本社会も、自分たちは何なのか、その存在の意味、価値、役割を自ら問う流れが来ています。それは人が社(やしろ)本来の意味に立ち返る時を迎えているということなのだと思うのです。