与えるためにここに在る

木の花へ届いたメールに引用されていた言葉が響いたので転載しておきたいと思いました。
スワミ・サッチーダナンダの著書『インテグラル・ヨーガ(Integral Yoga)』からの一節です。紹介します。

===

心が私的な利害から自由であるときわれわれは仕事を十全にすることができ、楽しく感じる。そのときわれわれの人生は意味に満ちたものになる。もし、われわれの心から利己性がなくなりすべての人々の人生に犠牲的献身が備わったならば他ならぬこの世が天国となり平安と至福の住みかとなる。

この生にあっては全てのものが与えている。献身的貢献は、生の掟なのだ。(中略)自然のすべて――木々も鳥も動物たちも全てが他のもののために生きている。なぜ、ロウソクは燃えて溶けていくのか?それは、光を与えるためである。なぜ、香は燃えて灰になるのか?それは、香りを与えるためである。なぜ、樹木は伸びるのか?それは、果実と花を与えるためである…。およそこの世界に生物・無生物を問わず自分だけのために生きているものなどあるだろうか?ない。ならば、自然のすべて犠牲だというのにひとり人間だけが利己的な生を送ってよいものだろうか?われわれは与え、与え、かつ与えるためにここに在る。われわれに与えられて然るべきもの――それはわれわれが思い煩うまでもなく、与えられるべくして与えられるのだ。

『犠牲的献身の人生を送るべきだというならば私はどうやって食べていけばいいのだ?どうやって衣服を得て、住むところを得たらいいのだ―?』 それらのものは他者に奉仕するための自分自身の備えとして持てばよいのである。あなたにはまた明日の朝も元気で他者への奉仕に出かけられるようにゆっくり休むためのベッドが要る。他者に奉仕するための十分なエネルギーを得るためには食べねばならない。そのようになにをするときでも『私は他者に奉仕するために自分自身を整えているのだ』という思いでもってやる。瞑想をするときでもそれは自分だけの平安のためではない。安らかな心で外に出て十分奉仕できるように、するのだ。他でもないそのことを念じながら、瞑想をする。そうだ、そのときにはヨガの瞑想さえもが無私の行為となる。

そしてそれが、神に対してさえ執着するなかれ、の意味なのだ。このヴァイラーギヤすなわち無執着だけがあなたの全人生を喜びに満ちたものへと変えるに足るのである。

===

この頃、わたわたが思うことは、自分はこれがやりたいがなくなったなと。いろいろやっているけど、それは役割としていただくという意識。そしてそれはとても楽しく、やりがいがあって、どんどんできる。
そこには自力で切り開くとか成功をつかみ取るっていう自己啓発みたいな意識はなくて、ただただいろいろな関係の交点に相応しくことに当たっていけば、いつの間にかこうだったら良いだろうなって思えたことが実現していく。そんなことを思っていました。そしたら、上記の言葉を伝え聞くことになりました。
「われわれは与え、与え、かつ与えるためにここに在る。」
本当にそうだなって思いました◎

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わたわた(いしわたかおる)です。料理と野菜を育てることが大好きです。何気ない日常も全てこの地球の表現の1ページ。生命と進化の星、地球を表現すべく、日常の1つ1つに心を込めて「生きる」をやっていきます。

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