偶然
畑に行くと、木の花EDEにわたわたが講師で行った際に知り合いになったMっちとKTさんが畑に居ました。ちょうど同僚のCさんが一通り畑を案内してくれたところでした。Mっちはついこの間、木の花で開催された第4回大人サミットにも参加していたので数日前に会ったばかり。それが畑にいるんだからびっくりしました。
「畑に来たら会えるかと思ってきたけど、忙しいと聞いたから会えると思わなかったよ」ってMっちが言うので、「何か畑に呼ばれた気がしてね」って答えました。
だって本当だもの。
畑は一通り説明が済んでいたようだったので、それでMっちたちは帰って行きました。前もって連絡くれていたらわたわたがじっくり説明できたのになとも思いましたが、Cさんが突然の畑訪問に面食らいながらも対応してくれたことは嬉しかったし、流れ・役割だったのだろうなと思いました。
また同時に思ったことは、ここのところダイズ畑の草刈りなどもあったし、たまたまダイズの播種日が明日で、久々にしっかり畑に意識を向けたからこそ、畑からか天からかの無意識層へのメッセージに気づけたのだろう。
いつものようにシステム構築業務をしていたら、この偶然はなかっただろうということでした。
畑に出れなくなっているシステム構築の仕事も決して嫌ではないのです。データベースの関数やスクリプトを組んでいくのも、業務や書類作成の流れをどう分解して再構築するか、データをどうくくっていくかというところでインスピレーションやイメージを膨らませるのが結構楽しい。でもそこに飲まれてしまうと、こういう偶然は得られないなと思うのです。
どんなに忙しくても、どんな仕事内容であっても、そこに飲まれて苦しんだり、逆にワーカーホリックなハイ状態になってしまうのではなく、いつも自分を俯瞰している状態でありたいなと思いました。小さな気づき、畑の作物が出してくれるようなメッセージをいつでも受け取れるといいなと思いました。
偶然の本質は何でしょうか?
偶とはペア。対のことです。然は当然の然でしからしむこと。対なればこそ、そのようになることが偶然です。
対の一方は自分。もう一方は自分でない側のこと。それは特定の相手のことではなく、自分を除く世界のこととすれば、自分はこの世界の構成員でもあるのだから、自分の内側にいる自分と世界側から見た自分。すなわち自我と役割(流れ)のことです。自我からしか見なければ、偶然はたまたまに映るだけ。流れの側から見たら、わたわたとMっちたちがそれぞれに動いてきて、出会っただけ、それぞれの動きの交点がそこにあっただけ。自我から見るからサプライズがあり、流れをいただく姿勢があればメッセージを受け取る精度が高まるのでしょう。つまりは自分を俯瞰しながら日々をやっていくことだなと思いました。
そんなわけでダイズ試験圃場の区分け。

キレイに踏み跡完成の写真。キッチリ区分けされていて、まるで何処かの試験場みたいです。
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