表現することの本当の本当

明日から2日間、わたわたが参加している「信州ぷ組」の農業技術交換会が開かれます。
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この会はぷ組員の農業技術の情報交換の場であり、相互に経験や課題を共有しようという勉強会です。毎年5〜6名がここ数年の取り組みや課題をテーマを決めて発表し、さらに前年夏〜秋に行われた圃場の相互視察会の記録映像を皆で観て、自分や仲間の田畑の状況を想いながらツッコミやアドバイスをし合います。農業者は経営者であり、労働者であり、技術者でもあるわけで、その技術者側面を補い合っていこうというわけです。

一ヶ月ほど前には、「信州ぷ組経営ビジョン発表会」っていうのもやっています。これは営農の経営者側面からの各々の方向性を発表する場であり、そもそもどんな想いで農業を始めたのか、どう展開していきたいのかといった夢や希望を具体化するために自分の中にあるものをアウトプットする勉強会。
これに対して技術交換会は
「じゃ、具体的には何をどうやってんの?」
「自分的には現状をどう捉えていて、今後はどうしていきたいの?」
ってところを発表する場です。

分かっているようで表現しようとすると難しい「自分の理解している自分」のこと。数年に1回のサイクルで発表が回ってきますが、その機会に向き合って整理してみることは、技術者として冷静に自分の経営や軌跡を客観視するということになるのだと思います。また仲間のそうした取り組みを見て、その切り口を知ることで、自らの振り返りの参考になってきています。

前年の視察会記録を観ての検討会は、映っている一人一人が主役です。この視察会自体も○○生産組合とか部会、何とか農法とか何とか栽培とかの指導会ではなく、ぷ組員が可能な範囲で自分の畑以外も視察に行き、品目や地域、出荷先等がかさなっていなくても、お互いに説明しあうことで現状を自分がどう捉えているのかを知る機会になり、皆のアドバイスや視点を貰える機会になると考えて運営してます。映像を見ると、確かに、あの日あの時このシーンでこの会話をした・・・・シーズンの記憶が蘇ります。一人ひとりにかけられる時間はわずかですが、前シーズンの映像をみてから、今年度の栽培をスタートできることは大きいと思うのです。

わたわたは発表者の資料やプレゼンの取りまとめと記録映像の編集とを毎年やらせていただいています。発表のテーマの絞り方、その内容、年々レベルが上がっています。ホントにどこまで行くんだこの人たちです。映像を編集していて思うのは、自分の畑や作物について皆が説明が分かりやすくなってきていること。それにともなって作物が生き生きしてきているなということです。人も土も相まって育っていくってことですね。作物を育て、自分も育てられ。そんなのが伝わってくるのが嬉しいなと思うのです。

わたわたはこんな風に技術交換会を捉えていますが、ぷ組員全員が必ずしも同じ捉え方ではないだろうし、参加しないぷ組員もいます。映像編集している時に同時に参加者募集もしているので、今編集している視察先の本人が不参加だってことも分かるのです。せっかく編集しても本人が観ることはなく、本人の参考になって欲しいのになぁって思うこともあります。だって本当にその人のその時が映っており、そこでの会話って映像でもなければその時だけで失われてしまうもの。シーズン入りを前に、現場で作物を観て話をしている場面を思い出すってのは大事だろうと思うのです。

で、も、ね。

その人が参加しないからって、編集を軽くやってしまおうって気には全くならないのです。本人が観なくても、わたわたはガッツリ編集やって、誰々圃場はこうでしたよっいう刻印はしっかり残したい。自然にそう思える。そして誰かがそれを観たというシーンが明日そこに生じれば良いと考えています。

たとえ物理的に本人が観ていなくても、誰かが形にしたもの、伝えたい心を具体的な物事として表現したもの、心の入った作品というのは、時空間に伝わっていき、縁(情報)の糸になるのです。それは映っている本人が観なくてもいい。形にすることの本当の本当の意味は、何時か何処かの誰かに何かを結びつける糸を生み出すことなのかなと思うのです。記録映像だけじゃなく、発表者の発表もしかり。まとめるのは自分の振り返りになり、自分の今いる位置を見出すことになるってのは当然だけど、本当の本当はそこじゃない。意志があれば誰にも見せることなく、計画立てて実行して検証して改善するっていうのはできる。でも誰かに向けて表現することの本当の本当は自分の考えている自分のためなんじゃなくて、世のため人のためでもなく、言ってみればこの宇宙を存在させるため。誰かと誰か、何かと何かが響きあうから、世界が存在している。表現するっていうのは、理由はいらなくて、ただ素直に世界に向き合ったら自然に出てくるもの。そんな風に思います。
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桿感

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6月29日に刈り取り、6月30日に脱穀した麦わらをハウスのトマトに敷きました。稲藁は割と入手しやすいけど、麦わらは手に入りにくいのです。トマトには麦わらを敷きたい。Happy village farmが小麦をつくっている理由の一つです。

トマトには麦わら、キュウリには稲藁、ナスも麦わらだけど、ピーマンは稲藁かな。土目にも因るけど。
カボチャは稲藁でメロンは麦わら。スイカには稲藁でしょう。
トマトも夏秋栽培は麦わらを敷き、冬春栽培だと稲藁を浅く鋤き込むかな。
黒ボクや細粒黄色土なら麦わら、砂質土なら稲藁とか。

理由。。。。
これは1つの理由でないと思います。ケイ酸植物(きゅうり)は稲藁が合うだろうっていうこと、湿り気を保った方が良い作物や状況では稲藁、分解が遅い方が良い場合は麦わら。地面に光が届きにくいのは稲藁、木漏れ日が入るのは麦わら。こんなイメージがふわふわと湧いて、あぁこの作物にはこっちかなと導いています、たぶん。敷く厚さ、敷くタイミング等状況に依ります。
これは桿だけに直感。科学的というよりアニミズム的感覚。まぁ、実際は試してみないと本当のところは分からないです。

農業というか何事にも、科学的知識や論理的思考(言わばアトミズム)も観察力や感性(アニミズム)もどちらも必要だと思うのです。知識や既存の考え方というのは、間違っている場合もあるかもしれない。目の前で起きている現象をうまく説明できないかもしれない。でもそれは間違っているのではなく、それらの既存の知見や考え方を含むもっと大きな枠組みがあると考える方が自然だと思うわけです。理論や道理というのはへ理屈ではなく、モノゴトを整理し、冷静になるための今ここで組むことのできる足場であって、絶対に不動のものというわけじゃない。むしろ常に革新的であるべきものです。だから既存の考え方が間違っていると考えるのなら否定するのではなく、その本来の位置づけをはっきりさせれば良い。既存の考え方に立った検証を積み上げて行けば、自ずと明らかになる(=自ずから然しむ)だけの話なのにそれをすっ飛ばして否定しようとするのは反自然的です。
一方、観察や感性で湧き上がるイメージや直感というのは知識や思考と無縁のものじゃなく、直感というのは見えない繋がりを見出しているわけなので、そもそも現象・モノゴトに対する最低限の認識(差異や共通点を捉えること)がないところには発生し得ないのです。考えるんじゃなく感じればいいというのは詭弁です。思考と直感は対立するものじゃなく補完されているのです。見た目や上っ面の情報に振り回されるのではなく、モノゴトを見つめ・知り、思考し、表現するときに直感は働くようにできています。知識や思考というのはそのピント合わせが本来の役割とも言えるかもしれません。

視点

指を怪我してしまった。湿式のバンドを張って早く直そうと思ったのでした。
ゆびのけが
朝食の前のお祈りのとき(わた家では食事の前にお祈りをしています。無宗教式で。)に、「今日はキャベツの調査があるので、この怪我が支障になりませんように。大事にこの指を扱います・・・・」っと考えていて、ふっと思い至るところがありました。
往々にして、人は怪我や病気をするまで、自分の身体を顧みないことが多いけれど、小さな指の怪我1つとっても、その指が担う仕事にとっては結構おおごとだし、その人のパフォーマンスが低下すれば他人にも影響する一大事なんだな。

そもそも怪我をするまで、自分の身体は自分のものってだけじゃなくて、自分は身体そのものだって思っているけれど、こうして考えるにこの怪我した指を対象化して認識している自分は、自分を外から眺められる能力があって自分を見ている。人間は自分以外の視点や全体ごとから自分のおかれている状況を観ることが出来るし、その状況に応じて自分の行動を律することもできる。その時の視点は、自分から見える視点で何かを判断し、条件反射をしているのではなく、物事の関連性や全体の動きを俯瞰して、客観的に自分を導くことのできる視点である。その視点にいると、いわゆる自分事にはまらないだろうし、はまる自分を観察することもできるのだろう。同じ視点で他人や取りまく社会を観ることで自他の関係がどうあればいいのかを吟味し、少なくとも自らの分を効果的に行使することができるだろう。この自らの分こそが、本来の自分なのだろう。自分の分をわきまえるとは何でも控えめにすることではないし、何かえらそうになることでもない。全体がどうなっているのかという視点を持つってことなんだろう。

そこにある

日没というのは地平線の向こうへ太陽が沈むことではなく、地球とともに自分が回転し、自分自身の影で太陽光線を遮り、星々の見える側へ回り行くこと。太陽を背にして宇宙を眺める方向を向くと、そこには卯月十三の月。春分点の方向を地球と同じ向きに加速中。そこにあって、お互いに見合ってる感じ。
日の入り140511 卯月13
動き続ける地球や月のつくる一瞬の景色。その働き合いのなかに自分もこの大地も一瞬一瞬を刻んでいる。
ただその働き合いがそこにあって、その働き合い、響き合いが、私が今ここにあるための条件であり、条件を活かすべく生きる作用が「私」という存在システムなのだ。

今日の風

今日の風は西風でとても寒かった。物理的な寒さだけじゃなく、なんだかとても空気が綺麗で、透き通っていて、少し哀しい感じ。空が哀しいのかなぁって思えた。だから、少し歩きながら、空や風に寄り添ってみた。心でね。

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Author:わたわた

わたわた(いしわたかおる)です。料理と野菜を育てることが大好きです。何気ない日常も全てこの地球の表現の1ページ。生命と進化の星、地球を表現すべく、日常の1つ1つに心を込めて「生きる」をやっていきます。

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