大晦日

大晦日です。普段は旧暦(太陰太陽暦、月と二十四節気の暦)と作物を通した季節の移ろいを感じて生活しているので、数日前まで年の瀬という感じがなかったのですが(旧暦では今は霜月です)、昨日と今日で年賀状を仕上げ、実家に帰省して両親や祖父母、兄弟や甥姪に会ってようやく年末年始なんだという感覚になりました。2015年は3月までは勤め人で、4月から個人事業主(農業)になったのですが、それまでは仕事納めや日曜日・休日が存在していたので、農業に関連した仕事はしていてもここまでどっぷりと畑や作物と一体になる感覚はなかったなぁと思います。

今の自分の感覚からすると、自然の移ろいや息づかいの上に人間活動の相互作用による年末年始や新学期って感覚が上に乗っている感じが分かるような気がします。江戸時代の人は旧暦が普通の暦だったので、月の動きと「ひと月」の感覚が同期していて、さらに太陽と地球の位置関係を示す二十四節気や七十二候の感覚で今を捉えていたのでしょう。今でも中国や台湾では旧正月や立春を重視するし、マヤでは複数の暦を合わせて使ってきたとも聞きました。ここ数日で思ったことは、人は暦の数だけ異なる時間に同時に存在できるのかもしれないってこと。時間や時節をどう意識するかで、自分がここが世界の全てだと思っている枠組みから離れて、相対的に自分を認識できるんだろうなってことです。ベースになっている太陽系の運行があって、その一部として地球の運動があり、地球の一部として地表の動植物があって、その上に人の社会が乗っかっている。私を形づくる物質も私が私と思う思考もその積み重ねと相互作用の上に形成され、私が生きることがまた次の縁を生み出すようにこの世界に仕組まれていると。仕組みとはとても自由であるなと。連綿と続く霜月の日々の感覚だけだとこんなことは考えもしなかったけれど、にわかに年末感や大晦日を意識したら、そういえばそうだなと思ったしだいです。

さて2015年。就農して色々ありました。まだまだ色々の途中であるし、作物を切れ目なくつくるっていうのが在るべく姿と考えているので、振り返ってまとまる気がしませんが、失敗もなるべくして失敗しているし、その都度その時の状況に埋もれるのではなく、見通しを持つように心がけることの大切さを知りました。経営というのは、営みを経て(たて)に繋いでいくことなので、今だけでなく今がどこにつながるか、過去にとらわれるのではなく過去をどこへつなげるのかが大事だなと思いました。そしてどの場面を思い出しても、友人知人、近所の人、仲間、家族・・・皆に助けられてきたなと思います。感謝です。

年が明ければまもなくトマトのタネまき開始です。畑や施設の整備もこれからやることいっぱいです。Webサイトもちゃんとつくります。
皆様、この世界さま、その一員として相応しく働きたいと思います。どうぞよろしくお願い申し上げます。ありがとうございます。

朔旦冬至、次の章へ

今日は冬至。しかも霜月の朔日でした。
冬至の惑星配置
冬至が朔となる朔旦冬至は19年に1回で、ここから19年周期の月と太陽(地球)の曆の追いかけっこ(メトン周期, 章)が始まるということですね。ちなみに19年後の2033年は12月21日22:45が冬至。朔は12月22日の3:46で5時間のずれで重なっているものの、日をまたいでしまうため、冬至は12月21日、朔は12月22日で、地球の回転の関係(朔の瞬間に日本がどっち向いているか)で、朔旦冬至とは呼べないようです。旧暦(天保暦)では冬至を含む月を霜月とする約束なので、2033年12月21日の冬至は霜月晦日となり、その翌日の朔は閏霜月の朔となるらしい(曆の専門家でも意見は別れるらしい。2033−2034年問題)。メトン周期がずれるのではなく、日の区切りが変な位置に入るってだけなのですが、星の運行を正確に取り入れようとすればするほど、全部を完璧に取り入れるをつくるのが難しいって面白い。

さて朔旦冬至。冬至なので、ゆず湯に入って、カボチャ食べました。カボチャの味噌グラタン。うまうま。甲午。
冬至かぼちゃごはん
そして、この章(2014.12.22-2033.12.21)の抱負。というか、抱富がいいな(笑)。
生きているということは、実は生かされること、命はこの世を構成するように存在している。だから生きている限り、この世に対してコミットする(命を負う)のは間違いないことで、それは自らの生に正面から向き合うこと、それは自分を成り立たせている全てのつながりに誠意を持って向かい合っていくことと同義だと思うわけです。抱負にしなくたって、最初から負っている自明のことなんだけど、つい忘れちゃうのもやはり人間かもしれない。その都度思い出しては、つながりを大事にして命にコミットしていきたいです。
で、その姿勢の上での抱負というか、何をするかってことですが、
2015年からは本格的に農業をやっていきます。まずは食える自然農法経営を目指し、試行錯誤、七転び八起き、頑張ります。

はじまりはいつも雨

神無月8日上弦。この季節の信州松本にしては珍しく2日続きの雨。

雨は子どもの頃、ずっと不思議だった。雨はどこから来るのかなと。
のちに、知識として、水の循環のことを知った。
氷の小さな粒が雲をつくることや雨雲のこと、調べるとそれはとても面白い世界。

でも、その時に思った。
そのことは、ずっと前から知っていたことだな、と。
雲の種類や雨のでき方も、後々学んだ大気汚染の取り込まれる仕組みも、どんなに複雑な話も、それは確認みたいなもの。

そして、知りたいのは、雨が水であるってことじゃなくて、雨って何なのだろうってことだと思った。

何か、空を廻っているもの。
めぐりめぐって降りてくるもの。

雨は、めぐりの終わりでめぐりの始まり。

想いや言葉、発した声、喜びや希望や怒りや哀しみや恐れや夢や慈しみが空をめぐっている。
雨になって還ってくる。
だから、お帰りなさいなんだな。
意義じゃなくて意味づけもなくて、ただただそのようになっているんだな。

そうやってめぐる想いや行いの、行ってきますとお帰りのなかで、
僕や君のどんな軌跡もまた空を廻って戻ってくるを繰り返し、終わりが始まり。
はじまりはいつも雨。
それは思い出すための時間。

僕たちに出来ることは終わりなきめぐりに自らのあることを知るということ。
それが本当の本来の智慧。
それは良い悪いではなく、自らがそこにあると見出すための働きがヒトを人たらしめている。
智慧の実。
人だから、思考をもつようにできているから、世界にどんな意味でも人生にどんな意義でもつくりだせる。
世界はただ廻るだけだけれど、意味のない人生はないように出来ている。だって人だから。

何かをして得られるものが目的なんじゃなく、何かをすること、悩むことも悩まないことも、人らしくあることが人の生きる目的ともいえる。
ただ廻る世界を愛と言っても良いし、そのなかで喜怒哀楽をもって人という存在があることを愛と言ってもいい。
前者は世界が存在すること自体の奇跡のことであろうし、後者は人の軌跡が縁となって人生を紡いでいく幸いの仕組みのことである。

♪「はじまりはいつも雨」ってASKAの歌があったなって思い出して、検索したら、そのカップリング曲が今日に合うなって思った。You Tubeさまさまだね。この歌の僕と君は、飛鳥さんと誰かのことじゃないね。自分のなかの僕と君でもいいし、コロコロ入れ替わってもいい。空(そら)とか地球と思ってもいいよね。

対みんぐ

1週間ほど古い出来事ですが、キャベツの化成肥料区の追肥と中耕培土を小型管理機でやりました。が、わたわたの見立てでは4-5日遅いタイミングだなと思われました。雑草の動きからしても、キャベツ自体の葉の広がり方からしても、5日前なら株元に寄せた土で雑草はうまく埋まり、キャベツにはそれほど土がかからないはずでした。
中耕培土CFCP140806-1 中耕培土CFCP140806-2
この大きさの雑草を培土で埋めようと思うとかなりの土を寄せる必要があり、そうするとキャベツが埋まってしまいます。
やってみると、案の定、埋まりました~~; 一部は葉をロータリーが巻き込みました_| ̄|○
あまり土が寄らないようにやると雑草残りまくりで、あとで全面を草かきで除草することになります。

結局、ロータリーの外側の刃を外して巻き込みを回避して、さらに土の上がる量を減らし、若干アクセルを落としてやることでキャベツに乗っかる土を減らすことはできたものの、培土後、手作業で埋まりすぎ株のレスキューをすることになりました。すべてはタイミングを逃したために発生した手間ってことです。
中耕培土CFCP140806-3

そのタイミングって早くなるのか、遅くなるのか。それは予めは分かりません。ただし、畑に行ってちゃんと作物や畑の様子を観れば、明日か明後日だなとか、今だ!ってのは分かるものだと思います。

それが分からないのなら、分かるようになるまで自然観察をして、作業をやってみて、土がどう飛ぶのかを試して修得していくしかなし、前もって計画した作業予定にしたがって日取りを決めるのであれば、自然農法なんて名乗る資格はないなと思うわけです。自然観察や作業の試行をやってみることなしに、つまりは面倒臭くて、失敗しながらでないと身につかないものだからこそ、後手後手になっても、その原因を自分の考え方や作物への向き合い方のなかに見つけていくことが重要なのだと思います。

タイミング(timing)とは「時機」であり、「今ここ」に機があることを察し、機を発現させる、同期させる、共鳴させるってことです。それは関係するそれぞれの存在が「対」をなし、ハモる「対ミング」なのだと思いました。キャベツも雑草も土も機械も全ての組合せがバッチリ合う好機があるってことです。それを逃さないことは、偶然ではなく、片時も目を離さないことでもなく、対となる相手・それぞれの存在のことを思う心の在りよう、周りや世界をみる視点や姿勢を正していくことだなと思うのでした。

つむぎ生きること

ここ1週間ほど、涙腺が緩いわたわたです。今日の松本地方、寒いけれど澄んだ空気と啓蟄を過ぎた仲春の陽射しでとても明るい。今日は3.11。風が、光が、何だかとても優しく感じます。生きることの喜びや哀しさ、優しさや厳しさ、敬愛も懐疑も混ざる世界だけれど、

総じて、

私たちが生きること、それ自体、

が、

独りではなく、

この世界の全ての存在といつも共にあるのだ、

と、

気づき、

そして響き合って、

それぞれのあり方を、人生を、つむいでいくこと。


誰も彼も、何もかも、見えるものも、見えないものも、

貴く、

ありがたい。


そんなメッセージが空気を伝わってくるな…。

そんなことを考えながら、カーラジオのスイッチを入れると、
調度、エリック・クラプトン“Tears in heaven"
出来過ぎでしょ。

---

Tears in heaven

Would you know my name if I saw you in heaven?
Would it be the same if I saw you in heaven?
I must be strong and carry on
'cause I know I don't belong here in heaven

Would you hold my hand if I saw you in heaven?
Would you help me stand if I saw you in heaven?
I'll find my way through night and day
'cause I know I just can't stay here in heaven

Time can bring ya down
Time can bend your knees
Time can break your heart
Have ya beggin' please beggin' please

Beyond the door there's peace, I'm sure
And I know there'll be no more tears in heaven

Would you know my name if I saw you in heaven?
Would it be the same if I saw you in heaven?
I must be strong and carry on
'cause I know I don't belong here in heaven
'cause I know I don't belong here in heaven

---
本当にそうだね。
We know there'll be no more tears in heaven.
We also know the reason why we have tears in here.

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わたわた(いしわたかおる)です。料理と野菜を育てることが大好きです。何気ない日常も全てこの地球の表現の1ページ。生命と進化の星、地球を表現すべく、日常の1つ1つに心を込めて「生きる」をやっていきます。

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